日本小5課文:守衛(wèi)百年后的故鄉(xiāng)【久我Masahi的日語課堂】#66

百年後の故郷を守る(守衛(wèi)百年后的故鄉(xiāng))
作者:河田 惠昭(かわた よしあき)
皆さんへ(致各位)
次のページから始まる、「百年後の故郷を守る」は、江戸時代、大地震からの復(fù)興に攜わった人物について書いた伝記です。(從下一頁開始的《守衛(wèi)百年后的故鄉(xiāng)》是關(guān)于江戶時代參與大地震后復(fù)興的人物的傳記。)
本作品は、この人物の伝記であるものの、そこで描かれる津波については科學(xué)的な記述も加え、その知識を得た読者が將來、津波の犠牲にならないことも大きな目的としました。本作品を?qū)Wんだ皆さんが、災(zāi)害によって命を失わないことを、願ってやみません。(本文雖是此人的傳記,但對于所寫的海嘯加上科學(xué)性的記述,讓從中獲得知識的讀者將來不要犧牲于海嘯也是很大的目的。希望學(xué)習(xí)本文的各位不要失命于災(zāi)害。)
河田 惠昭
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「これは、ただ事でない?!工葏郅胜?、五兵衛(wèi)(ごへえ)は家から出てきた。今の地震は、別に激しいと言う程のものではなかった。しかし、長いゆったりとした揺れ方と、唸る様な地鳴りとは、老いた五兵衛(wèi)に、今まで経験したことのない不気味なものであった。(“大事不妙。”五兵衛(wèi)嘟噥著,從屋內(nèi)出來。目前的地震雖說不上強烈。然而慢悠悠的晃動以及轟鳴般的地聲,令年老的五兵衛(wèi)感到從未有過的不快。)
五兵衛(wèi)は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では、豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向気が付かないもののようである。(五兵衛(wèi)在自家的院子里,擔心地俯視著下面的村子。村民著迷于慶祝豐年的前夕廟會準備,似乎完全沒有注意到方才的地震。)
村から海へ移した五兵衛(wèi)の目は、忽ちそこに吸い付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い巖底が現(xiàn)れてきた。(五兵衛(wèi)的目光從村子移到了海上,馬上便被海面吸住了視線。浪濤與風相反地朝海面打去,轉(zhuǎn)眼間,海岸就露出了寬闊的沙灘和黑色的巖底。)
「大変だ。津波がやって來るに違いない?!工取⑽灞l(wèi)は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村諸(もろ)共一呑みにやられてしまう。もう一刻も猶予は出來ない。(“大事不好了。一定是海嘯要來了?!蔽灞l(wèi)想道,就這樣放任不管的話,四百條命和整個村子將要被一口吞噬。已經(jīng)刻不容緩了。)
「よし?!工冉肖螭?、家に駆け込んだ五兵衛(wèi)は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには、取り入れるばかりになっている沢山の稲束(いなたば)が積んである。(“好?!蔽灞l(wèi)叫著沖進了屋子,然后拿著大火把飛奔出來。那里堆放著剛收割下來的眾多的稻捆。)
「勿體無いが、これで村中の命が救えるのだ?!工取⑽灞l(wèi)は、いきなりその稲叢(いなむら)の一つに火を移した。風に煽られて、火の手がぱっと上がった。一つまた一つ、五兵衛(wèi)は夢中で走った。こうして、自分の田の全ての稲叢に火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。(“雖然很浪費,但是這可以救下整村的命。”五兵衛(wèi)突然點燃了其中的一個稻堆。被風吹動,火勢一下子變大了。五兵衛(wèi)忘我地跑著,點燃了一個又一個稻堆。就這樣,把自己田里所有的稻堆都點上火后,扔下了火把。仿佛神志不清一樣,他呆立在原地,眺望著海面。)
これは、一九三七年(昭和十二年)から約十年間、小學(xué)校の教科書に載っていた「稲むらの火」の始まりの部分である。この後、物語は、燃え上がる稲叢の火に驚いた人々が、高臺にある五兵衛(wèi)の家に集まり、津波の難を逃れると言う結(jié)末に続いていく。(這是1937年(昭和12年)迄今約十年間,登載在小學(xué)教科書上的《稻堆之火》的開頭部分。這故事之后,驚訝于稻堆燃起火的人們,到處在高地的五兵衛(wèi)的家集中起來,最終逃過了海嘯之難。)
五兵衛(wèi)の優(yōu)れた決斷と行動は、読み手の心に大きな感動を呼び起こしたが、同時に、津波の怖さや、素早く高い所へ逃げることの必要性を教えることにもなった。(五兵衛(wèi)優(yōu)秀的決斷與行動,使讀者深受感動,然而同時,也告訴了讀者海嘯的恐怖之處以及要快速逃往高處的必要性。)
2
実は、この物語に登場する五兵衛(wèi)には、現(xiàn)実のモデルがいる。浜口儀兵衛(wèi)(はまぐちぎへえ)と言う人物である。(其實在這則故事中登場的五兵衛(wèi)有現(xiàn)實的原型,名為浜口義兵衛(wèi)。)
浜口儀兵衛(wèi)は、一八二〇年、江戸時代の終わりに近い頃、紀州藩広村(きしゅうはんひろむら)(今の和歌山県広川町)に生まれた。當時の広村は、人口千三百人余り、農(nóng)民や漁民が暮らす靜かな村であった。儀兵衛(wèi)の家は、江戸と銚子(ちょうし)(今の東京都と千葉県銚子市)で大きな醤油屋を営んでいた。そのため、長閑な海辺の村ではあったが、江戸の活気を十分に浴びて、儀兵衛(wèi)は、よく遊びよく學(xué)ぶ子供時代を過ごす。成人した儀兵衛(wèi)は、家業(yè)を手伝うようになる。やがて店主となり、その後も、毎年半分を関東で、半分を故郷の広村で過ごす生活をしていた。(浜口義兵衛(wèi)于1820年,江戶時代快要結(jié)束的時候,出生在紀州藩廣村(如今的和歌山縣廣川町)。當時廣村的人口有一千三百多人,是個農(nóng)民和漁民平靜生活的村子。義兵衛(wèi)的家在江戶和銚子(如今的東京都和千葉縣銚子市)經(jīng)營著大醬油店。因此,雖是悠閑的臨海村,義兵衛(wèi)也充分接受著江戶的活力,度過了勞逸結(jié)合的孩提時代。成年后的義兵衛(wèi)幫忙打理家業(yè),不久,當上了店主,這之后也過著半年在關(guān)東,半年在故鄉(xiāng)廣村的生活。)

三十四歳になった儀兵衛(wèi)が、ちょうど広村にいた時のことである。安政(あんせい)元年(一八五四年)十一月五日、夕方四時頃、マグニチュード八.四の大地震が発生した。震源地は和歌山県潮岬(しおのみさき)の沖合い。広村は、震度六強の揺れに襲われた。(34歲的義兵衛(wèi)正好在廣村的時候。安政元年(1854年)11月5日,傍晚4點左右,發(fā)生了震級8.4的大地震。震源地在和歌山縣潮岬的海邊。廣村遭到了六級震度的地震。)
この地震について、當時の人が書き殘したものがある。広川町養(yǎng)源寺(ようげんじ)に伝わる「安政聞録(もんろく)」である。その中には、地震の様子が詳しく書かれ、続いて、村を何度も襲った大津波の様子が記されている?!赴舱勫h」の筆者は、この時の儀兵衛(wèi)の行動を、次のように書いている。(關(guān)于這次地震,有遺留下當時的人所寫的記載——廣川町養(yǎng)源寺所流傳的《安政聞錄》。其中詳細描寫了地震的樣子,接著,記載了數(shù)次席卷村子的大海嘯的樣子?!栋舱勪洝返墓P者將此時義兵衛(wèi)的行動如此寫道:)
「村中を巡回し、人々を逃がし、二番波にも恐れず、寄せ來る波を東西南北へ避け免れ、尚も遅れ走る人々に過ち有らんことを恐れ、見回り候ところ、黃昏に及び、道分明ならず、これによりて、知略を発し、野にあり合わせし積みし藁へ火を放ち、多くの人々を助けしなり。」(“義兵衛(wèi)在整個村中巡回,讓人們逃跑,不畏懼第二波海嘯,往四方避開襲來的海浪,害怕還在晚逃的人們負傷,巡視的時候到了黃昏,看不清道路,因此開動智慧,往田野中堆放著的稻草堆上放火,救助了眾多的人們。”)
儀兵衛(wèi)は、積み藁に火を付けることで、薄暗がりで逃げ道を見つけられずにいた村人達に方向を指し示し、その命を救った。ここに描かれた儀兵衛(wèi)の知恵と決斷力が、「稲むらの火」の主人公五兵衛(wèi)のモデルとなったのである。(義兵衛(wèi)在稻草堆上放火,給微暗下找不到逃路的村民們指示了方向,救下了他們的性命。此處描寫的義兵衛(wèi)的智慧與決斷力,成為了《稻堆之火》的主人公五兵衛(wèi)的原型。)
しかし、浜口儀兵衛(wèi)の本當の物語は、実は、この後始まる。(然而,浜口義兵衛(wèi)真正的故事其實在這之后開始。)

3
大地震の後、田畑には海水に運ばれた材木などが散らばり、家屋の殆どが倒されるか、五、六波続いた津波で押し流されるかしていた。その上、大きな余震が度々起こった。打ちひしがれた人々を見て、儀兵衛(wèi)は紀州藩に手紙を出し、援助を求めることにした。ところが、幾日待っても返事が來ない。村人の中には、希望を失い、村を捨てようとする者まで現(xiàn)れ始めた。(大地震之后,田地上散亂著海水沖來的木材等物,大部分房屋要么倒了,要么被持續(xù)了五、六波的海嘯沖走了。并且,時不時地發(fā)生大余震??粗钍艽驌舻娜藗?,義兵衛(wèi)給紀州藩寫信,尋求援助。然而,等待了數(shù)日也沒有回信。村民當中甚至開始出現(xiàn)了失去希望,準備拋棄村子的人。)
「このままでは、村が潰れる?!工饯λ激盲績x兵衛(wèi)は、住む家も、食べるものも、著るものもない村人の為に、自分のお金を出して、米を買い、衣服を買い、仮小屋を建てた。それでも、村人の流出は止まらない。何しろ、漁船は津波で流されたり壊されたり使えず、田畑も塩分が入ってすぐには作付けが出來ないのである。このまま何もしなければ生きていけないのは、誰の目にも明らかだった?!袱嗓Δ工欷?、村人達に希望と気力を取り戻してもらえるのか。どうすれば、村人達は村に留まってくれるのか?!梗ā霸龠@樣下去的話,村子就要毀了?!比绱丝紤]的義兵衛(wèi)為了無家住、無食吃、無衣穿的村民,掏出了自己的錢,買米買衣服,搭建臨時小屋。然而,還是無法阻止村民的外流。畢竟,漁船被海嘯沖走毀壞無法使用,田地也進了鹽分,無法耕種。誰都清楚就這樣什么都不做的話無法生存?!耙趺床拍茏尨迕駛冋一叵M钠鹩職饽??要怎么才能把村民們留在村子呢?”)
考えに考えた儀兵衛(wèi)は、一つの計畫を思い付く。村人自らの手で堤防を造ることを紀州藩に願い出ようというのである。材料費も、人々の賃金も、全部自分と店が出そうと決めた。藩から許しが出た。(義兵衛(wèi)考慮著考慮著,想到了一個計劃。他準備向紀州藩提出由村民自己建造堤壩的申請。材料費和人們的報酬全部都由自己和店來出。藩批準了。)
儀兵衛(wèi)は、村人に向かって熱心に語りかけた?!肝迨赆帷ⅳい?、百年後に大津波が來ても、村を守れる大堤防を造ろう。工事には、出來るだけ多くの村人に參加してもらう。賃金は、毎日手に出來るようにする。自分達の手で、子孫達まで安心して暮らせる村をつくるんだ?!梗x兵衛(wèi)向村民們熱心地訴說道:“來建造五十年后,不,一百年后就算大海嘯來了也能守衛(wèi)村子的大堤壩吧。能來參加工程的村民越多越好。每天都能拿到當天的報酬。用自己的手來建造子孫們也能安心生活的村子吧。”)
儀兵衛(wèi)の熱意は、外を向こうとしていた村人達の足を止めた。そして、賃金を得られる仕事があり、それが村の為になるという案は、村人達を振り返らせた。殆どの村人が、堤防造りに參加することを決めた。(義兵衛(wèi)的熱情拖住了準備離開村子的村民們。并且,還有能拿到報酬的工作,這工作又是為了村子,這個計劃讓村民們回來了。大部分的村民決定參加堤壩建造。)
安政二年(一八五五年)二月、儀兵衛(wèi)と村人達は工事に著手した。儀兵衛(wèi)が設(shè)計した堤防は、全長九百メートル、高さ四·五メートルという大掛かりなものだった。九百メートルという長さは、海に流れ込む二つの川の間の距離である。高さは、押し寄せた最大の津波の高さに合わせたという。そして、流れの速い津波に持ち去られないように、土臺を石垣積みで守り、その上に盛り土をするというものだ。毎日四、五百人の村人が仕事に勵む。子供も含めて、誰もが自分の力に合わせて出來るだけのことをした。村は活気に溢れ、出て行く人もいなくなった。儀兵衛(wèi)の故郷を思う気持ちが人々を動かし、またしても救ったのである。(安政2年(1855年)2月,義兵衛(wèi)和村民們開始了工程。義兵衛(wèi)設(shè)計的堤壩是全長900M,高4.5M的大規(guī)模工程。900M的長度是海水流入兩條川的間距。高與沖來的最大海嘯的高度保持一致。并且,為了不被快速沖來的海嘯沖走,用石墻來守衛(wèi)地基,還在上面堆土。每天有四、五百個村民辛勤工作,其中也包括了孩子,誰都協(xié)力起來做了自己能做的事。村子充滿活力,也不再有人外出了。義兵衛(wèi)為故鄉(xiāng)著想的心打動了人們,也拯救了人們。)

ところが、安政二年十月、今度は江戸を大地震が襲った。連絡(luò)を受けて、立て直しの為に江戸に著いた儀兵衛(wèi)に、番頭が切り出した?!袱长韦蓼蓼扦?、再開するどころか店が潰れます。どうか、堤防建設(shè)にお金を出すことを中止してください?!梗ㄈ欢?,安政2年10月,這次江戶發(fā)生了大地震。掌柜對收到聯(lián)絡(luò)后,為了重訂計劃而來到江戶的義兵衛(wèi)說道:“再這樣下去的話,別說是再開了,店要倒了。請中止給堤壩建設(shè)提供資金?!保?/p>
儀兵衛(wèi)は決斷を迫られたが、その心は、なかなか決まらなかった。(義兵衛(wèi)被迫作出決斷,然而遲遲沒有作出決定。)
そのうちに、江戸の店は再建の目処が立たず、遂に閉じることになる。殘るは銚子の店だけになってしまった。事業(yè)を守るため、銚子の店で必死に働く儀兵衛(wèi)のもとに、ある日、広村からの手紙が屆く。儀兵衛(wèi)を気遣いながら、信じて待つという內(nèi)容のものだった?!袱胜螭趣筏皮?、堤防を完成させる?!箖x兵衛(wèi)が最後に下した決斷であった。(不久,再建江戶的店沒有眉目,終于閉店了。只剩下銚子的店了。為了守住事業(yè),義兵衛(wèi)在銚子的店拼命工作,某日,他收到了來自廣村寄來的信。信里寫道了擔心義兵衛(wèi),并相信等待他。義兵衛(wèi)最后下定決心:“無論如何,都要完成堤壩建設(shè)?!保?/p>
銚子の店に新たな気運が生まれていった。村と村人を思う儀兵衛(wèi)の固い決意に、働く者達が動かされたのである。特に、広村出身の者達は、故郷の為に身を粉にして働いた。その勢いに、店中が一丸となった。この年、店は創(chuàng)業(yè)以來最高の生産高を上げた。(銚子的店迎來了新的氣運。為村子、村民考慮的義兵衛(wèi)的堅定決意打動了勞動者們。特別是廣村出身的人們,為了故鄉(xiāng)拼命勞動。憑借這勢頭,整個店成為了一個整體。是年,店達到了創(chuàng)業(yè)以來最高的產(chǎn)量。)
そして二年、暫くぶりに、儀兵衛(wèi)は広村に戻った。村人達は、儀兵衛(wèi)がいない間も、弛まず堤防工事を進めていた。儀兵衛(wèi)がそこに見たのは、自らの手で村を再興しようとしている村人達の姿であった。儀兵衛(wèi)は最後の仕上げに取り掛かった。松の木を堤防に沿って植えるように指示した。その數(shù)、數(shù)千本。松が根を張ることで、津波や長年の風雨にもびくともしない、強固な堤防にしようとしたのである。松林の効用はそれだけではない。たとえ堤防を超える津波が來ても、松林は津波の勢いを弱くする。また、流された人が林で止められ、助かることもある。これだけ大きな石垣形式の盛り土堤防は、世界でも初めてのものであった。(然后時隔兩年,義兵衛(wèi)回到了廣村。村民們在義兵衛(wèi)不在的時候也不斷進展著堤壩工程。義兵衛(wèi)在那里目睹了用自己的手復(fù)興村子的村民們的身影。義兵衛(wèi)著手起最后的完工階段。指示村民沿著堤壩種植數(shù)千棵松樹。松樹的樹根伸展,在海嘯和長年的風雨下也紋絲不動,可使堤壩堅固。松林的作用不只是加強堤壩牢固。就算海嘯超出了堤壩,松林可以削弱海嘯的勢頭。并且,能夠讓被沖走的人停在林間,得到救助。如此大的石墻堆土堤壩,在世界上也是第一個。)
約四年に渡る工事は終わった。全長は予定より少し短くなったが、約六百メートルの広村堤防の完成である。(約四年的工程結(jié)束了。雖然全長比預(yù)定短了一點,約600M的廣村堤壩完成了。)
その後、儀兵衛(wèi)は、傾きかけた家業(yè)を盛り返すことに力を集中する。その仕事も立派に果たして、一八八五年(明治十八年)、その一生を終えた。六十五歳であった。(這之后,義兵衛(wèi)致力于重振衰落的家業(yè)。這項工作也完美地完成后,義兵衛(wèi)于1885年(明治18年)結(jié)束了一生。享年65歲。)
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堤防完成から八十八年後の一九四六年(昭和二十一年)、再び和歌山?jīng)_でマグニチュード八·〇の大地震が発生した。この時、広村には、高さ四メートルの津波が押し寄せた。ところが、安政の大地震では、村の中心集落の全てが浸水したのに対して、この昭和の地震では、堤防によって村の大部分が浸水の害を受けることはなかった。「百年後に大津波が來ても村を守れる堤防を」と言う儀兵衛(wèi)の切なる願いは、この時、実を結(jié)んだのである。(堤壩完成的88年后的1946年(昭和21年),和歌山海面再次發(fā)生了震級8.0的大地震。這時,高4M的海嘯涌向廣村。然而,相比安政大地震全村浸水,這次的昭和地震,因為堤壩,村子大部分并未遭受浸水之災(zāi)?!敖ㄔ炀退惆倌旰蟠蠛[來了也能守衛(wèi)村子的堤壩”義兵衛(wèi)所說的悲痛的愿望在這一時候?qū)崿F(xiàn)了。)
儀兵衛(wèi)は、設(shè)計や土木工事の専門家ではない。そんな儀兵衛(wèi)が、百年後にも役立つ堤防を造ったことは、まさに、驚くべきことであり、偉大な功績である。そのうえ、災(zāi)害後の対応と防災(zāi)という観點から見ても、儀兵衛(wèi)の堤防造りには大きな意義が含まれている。その一つは、物質(zhì)的な援助だけでなく、防災(zāi)事業(yè)と住民の生活援助を合わせて行ったことである。また、住民同士が、互いに助け合いながら、自分達が住む所を守るのだという意識を持つように促したことも大きい。他のものに頼るのではない、自助の意識と共助の意識である。(義兵衛(wèi)不是設(shè)計和土木工程的專家。這樣的義兵衛(wèi)建造出了百年后也能派上用場的堤壩,確實是令人震驚的偉大功績。并且,從災(zāi)害后的對應(yīng)與防災(zāi)的觀點來看,義兵衛(wèi)的堤壩建造也包含著巨大的意義。首先不只是物質(zhì)的援助,還要進行防災(zāi)以及對居民們的生活援助。此外,促使居民們互幫互助,持有守衛(wèi)自己的住處的意識也意義巨大。不要依靠他人,而是要有自助與互助的意識。)
歴史的に見て、津波による災(zāi)害が繰り返し起こっている地域は、他にもある。その一つが、東日本大震災(zāi)が起こった、東北地方の三陸(さんりく)沿岸だ。二〇一一年(平成二十三年)三月十一日午後三時前に大地震が起こり、一分以上続く強い揺れが、沿岸各地を襲った。その後やって來た津波は想像を超えていたため、堤防では守ることが出來ず、犠牲になった人も多くいた。(翻看歷史,還有其它反復(fù)發(fā)生海嘯災(zāi)害的地域。其中一個是發(fā)生了東日本大地震的東北地方的三陸沿岸。2011年(平成23年)3月11日午后3點前發(fā)生了大地震,沿岸各地都產(chǎn)生了一分鐘以上的強烈搖晃。這之后襲來的海嘯超乎想象,因此堤壩沒能防住,眾多的人犧牲了。)
しかし、津波のことを?qū)Wび、避難訓(xùn)練を繰り返していた児童や生徒、そして住民は、直ぐに避難した。その途中、幼児や高齢者の避難を助けながら、まだ避難していなかった人達にも聲をかけたことで、多くの人が助かった。ここでも、儀兵衛(wèi)の行動にも見られた自助と共助の意識がとても役立ったのだ。その後始まった被災(zāi)地の町造りにおいては、二度と津波によって被災(zāi)しないことを目標として、復(fù)興が続けられている。そこでは、自助と共助だけでなく、政府や自治體による公助も加わり、協(xié)同作業(yè)が進められている。(然而,學(xué)習(xí)海嘯的知識,反復(fù)進行避難訓(xùn)練的兒童、學(xué)生以及居民立刻避難了。途中,一邊幫助幼兒和高齡者避難,一邊讓還沒避難的人們避難,很多人得救了。義兵衛(wèi)行動的自助與互助意識在這里也非常有用。這之后開始的災(zāi)區(qū)重建,以不再受到海嘯的災(zāi)害為目標,持續(xù)進行著復(fù)興。不只是自助與互助,還加上了政府和自治團體的公助,推進著協(xié)同作業(yè)。)
地震の多いこの國に生きる私達は、百年後の故郷を守る為に浜口儀兵衛(wèi)が行ったことから、多くのことを?qū)Wぶことが出來る。また、學(xué)ばなければならないだろう。広川町では、毎年十一月に、津波祭を開催している。子供達は、儀兵衛(wèi)によって造られた堤防に一握りの砂を置く。故郷が生んだ偉人への感謝の気持ちと、故郷の安全を願いながら。(在這個地震多發(fā)國生活著的我們,從為了守護百年后的故鄉(xiāng)的浜口義兵衛(wèi)的所作所為中,可以學(xué)到很多東西。并且,不得不學(xué)吧。在廣川町,每年11月,舉辦海嘯祭。孩子們在義兵衛(wèi)建造的堤壩上放上一把沙,對故鄉(xiāng)的偉人表示感謝,以及祈禱故鄉(xiāng)的安全。)


詞匯
攜わる(たずさわる):參與、參加;從事;有關(guān)系
ゆったり:寬松、寬敞;舒暢、舒適;悠閑
老いる(おいる):年老、衰老、上年紀
宵祭り(よいまつり):節(jié)日前夕舉行的小型廟會
松明(たいまつ):多油脂可燃燒照明的松明、火把、火炬
長閑(のどか):悠閑、寧靜;晴朗、舒適
散らばる(ちらばる):分散、分布;散亂、零亂
押し流す(おしながす):沖走、沖跑、沖垮、沖刷;(感情等)沖擊
打ちひしがれる:受到強大的打擊導(dǎo)致的失落
願い出る(ねがいでる):(提出)申請、請求、呈請
身を粉にする(みをこにする):粉身碎骨、不辭勞苦、拼命
一丸(いちがん):一團、一個整體、集中在一起
生産高(せいさんだか):產(chǎn)量、產(chǎn)值

作業(yè)
1.讀課文
2.思考課文相關(guān)內(nèi)容:
