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関大北陽(yáng) 辻本忠監(jiān)督 「ビビらないこと、初回をゼロで抑えること」

2022-07-19 22:42 作者:雀到今生打已遲  | 我要投稿

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「絶対王者」に挑む大阪の監(jiān)督たち?第4章

関大北陽(yáng) 辻本忠監(jiān)督 「ビビらないこと、初回をゼロで抑えること」


? 高く厚い大阪桐蔭の壁


 年が明け、2022年になってもちょくちょく冷やかされることがあるという。

「『あの場(chǎng)面(延長(zhǎng)13回)はバントやったやろ』って、試合直後は、色んな方から電話(huà)がかかってくる度に言われて……。冬になっても、會(huì)話(huà)がどうしてもその話(huà)になるんですよ」

 苦笑いを浮かべながら辻本忠監(jiān)督が振り返るのは、前年夏の大阪大會(huì)?準(zhǔn)決勝の大阪桐蔭戦だ。初回から小刻みに點(diǎn)を取り合ったこの試合は、5回を終えて3対6と大阪桐蔭にリードを許すも、6回に1點(diǎn)、7回に2點(diǎn)を挙げた関大北陽(yáng)が同點(diǎn)に追いつく。さらに8回には2番?杉本瞬の犠飛で勝ち越した。だが、9回表に大阪桐蔭の3番?池田陵真に同點(diǎn)アーチを許し、試合は再び同點(diǎn)に。延長(zhǎng)12回でも決著がつかず、13回からタイブレークに持ち込まれた。

 13回表の大阪桐蔭の攻撃は無(wú)得點(diǎn)。無(wú)死?一、二塁からバント失敗で、次打者が併殺打であっさりと攻撃を終えた。裏の関大北陽(yáng)の攻撃は、1番の勝田成、2番の杉本を走者に置き、打席に立つのは1年生から中軸を打ってきた3番の山田悠平。1點(diǎn)さえ取れば勝てる場(chǎng)面で、セオリー通りなら犠打で送って4番で勝負(fù)と考える。

「それはもちろん頭にありました。でも、このチームは山田で勝ってきたチーム。山田のひと振りに賭けようと思って、(ヒッティングを)指示しました」

 だが、結(jié)果は1ボール2ストライクから二ゴロで4-6-3のダブルプレー。4番の辻鈴太も右飛に倒れ、3アウトとなった?!笭状颏嵌?、三塁にしておけば、サヨナラ犠飛で勝っていたかもしれないじゃないか」という聲も多かった。

 確かに、あの場(chǎng)面は犠打が妥當(dāng)だったかもしれない。だが、そこには監(jiān)督と選手にしか分からない信頼関係がある?!副摔胜楹韦颏浃盲皮欷毪猡筏欷胜ぁ工趣いx手の可能性に辻本監(jiān)督は賭けた。

 その場(chǎng)面以上に辻本監(jiān)督が悔やんでいるのは14回の攻撃だ。14回表に大阪桐蔭が5點(diǎn)を加え、突き放された直後だった。山田と辻が走者となり、5番の田中蓮が中前打で1點(diǎn)を返した。6番の牛尾陽(yáng)介は三振に倒れたが、7番の梶井風(fēng)汰の二塁への當(dāng)たりを二塁手が後ろに逸らし、二塁走者の辻が生還。さらに8番の真鍋元斗の右前適時(shí)打で田中が還り、計(jì)3點(diǎn)を返した。迎える9番は、12回から守備についていた阿部穏希。

「実はあの時(shí)、代打を考えていたんです。でも、仮に代打が打って同點(diǎn)になると、阿部を引っ込めることで、15回に守れる內(nèi)野手がいなくなってしまうので……。何より阿部の打席で、ノーストライク2ボールから本當(dāng)は「待て」のサインを出そうか迷ったんです。せめて四球を選んで何とか繋いで、1番の勝田に回せたら……と思っていました。阿部にスクイズという選択肢もありましたが、2アウトになるとこっちにプレッシャーがかかってしまうし、ひとつのアウトをあげたくなかったんです(結(jié)果はセカンドフライ)。この場(chǎng)面は、今でも悔いが殘っています」

 安打數(shù)は大阪桐蔭が16本、関大北陽(yáng)は14本。

「(大阪桐蔭の)先発の竹中(勇登)君は、春に比べると狀態(tài)は良くはなさそうに見(jiàn)えたので、攻撃面で何とか食らいついていきたかったですが、9回の池田君のホームランが痛かったですね。(先頭打者の)藤原(夏暉)君を二ゴロに打ち取って池田君さえ乗り切ればと思っていたのですが……」

 最後は2點(diǎn)差まで詰め寄るも、続いたチャンスを逆転まで持っていくことはできなかった(試合は1012で敗退)。やはり大阪桐蔭の壁は厚い。そう感じずにはいられない103回大會(huì)の夏だった。


自宅から通えた「全國(guó)區(qū)」の學(xué)校


 東京方面から西へ向かう新幹線(xiàn)の車(chē)內(nèi)。新大阪駅が近くなると流れる『間もなく、新大阪です』というアナウンス。そのタイミングで進(jìn)行方向左側(cè)の車(chē)窓をのぞくと、防球ネットに掲げられた「関西大學(xué)北陽(yáng)高校」という大きな看板が目に飛び込んでくる。さらに數(shù)十秒後には茶色い近代的な関大北陽(yáng)の校舎が視界に入る。この一連の景色は「大阪に著いたな」と感じさせられるショートムービーのようだ。

 新幹線(xiàn)の高架と町工場(chǎng)に囲まれた関大北陽(yáng)の野球部グラウンドは、レフト後方が一般道路で、フェンス越しから誰(shuí)でも練習(xí)を見(jiàn)學(xué)することができる。辻本監(jiān)督も、中學(xué)時(shí)代、野球の練習(xí)帰りにフェンスに張り付いて練習(xí)風(fēng)景をよく眺めていた。

「フェンスの外から練習(xí)を見(jiàn)ていたら、(當(dāng)時(shí)の)新納監(jiān)督から『おう、中學(xué)生か。ウチに來(lái)いよ』って聲を掛けてもらって、すごく嬉しかったんです」


 辻本監(jiān)督が中學(xué)2年の春、北陽(yáng)はのちに近鉄バファローズにドラフト1位指名されるエースの寺前正雄を擁して、センバツベスト4まで勝ち進(jìn)んだ。

「そのセンバツも甲子園に行って観戦しました。僕が通っていた中學(xué)から北陽(yáng)高校の野球部の選手がグラウンドに移動(dòng)している光景が見(jiàn)えるんです。當(dāng)時(shí)は、寺前投手の姿を校舎の窓からよく眺めていて、學(xué)校の校門(mén)前で寺前さんに握手してもらったこともありました。家の近所に甲子園でこれだけ活躍できる學(xué)校があるなんて。そう思うと自然とテンションが上がっていました」

 東淀川ボーイズでは投手だったが、決して目立つような存在ではなかった。だからこそ、「全國(guó)區(qū)」の高校の監(jiān)督から話(huà)しかけてもらったことが嬉しかった。甲子園のスター選手を身近に感じることもできた。実家は學(xué)校から自転車(chē)ですぐの距離にあり、グラウンドはちょうど実家と學(xué)校の中間地點(diǎn)にあった。そんなことも後押しとなり、北陽(yáng)高校で甲子園を目指すことに決めた。

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? 気がついたら打っていた4番


 北陽(yáng)は春8回、夏6回の甲子園出場(chǎng)歴があり、70年のセンバツは準(zhǔn)優(yōu)勝。岡田彰布(元?阪神など)をはじめ多くのプロ野球選手を輩出している。明星、PL學(xué)園、近大附、興國(guó)、大鉄(現(xiàn)?阪南大高)、浪商とともに〝私學(xué)7強(qiáng)?と呼ばれていた。08年に校名が北陽(yáng)から関大北陽(yáng)と改稱(chēng)され、今年で15年目となる。

 92年春。辻本少年はそんな伝統(tǒng)校の門(mén)をくぐった。入部早々、練習(xí)の輪の中でやたらと目につく1人の男がいた。

「髪型はオールバックで顔がいかつくて。當(dāng)時(shí)、少年野球ではローカットのストッキングが流行っていたのに、ピンピンの(長(zhǎng)めの)ストッキングを履いている選手が練習(xí)に混ざっていたんです。最初はコーチだと思っていたんですけど、後で同級(jí)生だと聞いてすごく驚きましたね(笑)。バッティングではポンポンとサク越えを打つんです。僕は入學(xué)した頃はピッチャーをやっていて、ブルペンで並んで投げましたが、投げるボールのレベルが違っていましたね。こういう選手がプロに行くんやって、その時(shí)に初めて感じました」

 その選手が、高校通算52本塁打を放ち、のちにオリックスにドラフト1位でプロ入りすることになる嘉勢(shì)敏弘だった。

 嘉勢(shì)は1年の夏にはレギュラーの座を摑み、すでに5番を打っていた。軟式野球部出身で、硬球に慣れるのに多少時(shí)間はかかったが、対応力が付けば途端に見(jiàn)たことのない打球を左右に打ち分けた。マウンドに立てば強(qiáng)いストレートを投げる、現(xiàn)在で言う「二刀流」だ。たちまち関西圏のスポーツ紙でも嘉勢(shì)の活躍は取り上げられ、早くからドラフト候補(bǔ)選手として注目を浴びていた。

 辻本監(jiān)督は、2年夏の大阪大會(huì)はボールボーイとして嘉勢(shì)の活躍を眺めていたが、新チームとなった2年秋の大阪大會(huì)2回戦で代打出場(chǎng)。ようやく公式戦デビューを飾っていた。嘉勢(shì)に大きく遅れをとっていたが、そこから徐々に結(jié)果を出すようになり「気が付いたら4番を打っていた」という。

「入學(xué)前は、失禮ながら北陽(yáng)ならレギュラーになれると過(guò)度な自信があったんです。そこまですごい選手じゃなかったんですけどね。でも、すごい同級(jí)生もいましたし、負(fù)けられないという気持ちはものすごくありました」

 辻本監(jiān)督を4番に導(dǎo)いたのは、豊富な練習(xí)量だった。北陽(yáng)は今も昔も全部員が自宅からの通學(xué)生。新納監(jiān)督の厳しい練習(xí)についていくのに必死だったが、大の負(fù)けず嫌いな性格もあり「負(fù)けたくない!」と歯を食いしばった。當(dāng)時(shí)は練習(xí)時(shí)間の終わりに制限はなかったが、最寄りの阪急正雀駅まで30分かけて徒歩で帰る仲間たちにはないアドバンテージがあった。帰り時(shí)間を気にすることなく、思う存分練習(xí)ができた。

「家からグラウンドが近かったこともあり、他の選手たちが下校している時(shí)間も僕は練習(xí)できたんです。人一倍練習(xí)をしてから帰宅して、ゆっくり風(fēng)呂に入ってご飯を食べてゆっくり休んでも、僕の方が他の選手よりも早く寢られるくらいでしたから」

 夜遅くまでバットを振り、厳しいトレーニングにも耐えた。その成果で體も徐々に大きくなり、新納監(jiān)督からの信頼も摑んだ。プロ注目の嘉勢(shì)とクリーンアップを打ったことで、「辻本」の名も徐々に広まっていった。


猛者揃いの大阪、恩師からの誘い


?。材昵?、大阪大會(huì)、近畿大會(huì)をともに決勝まで勝ち上がり、翌春のセンバツ出場(chǎng)を確実なものにしていた。しかし、両大會(huì)ともに決勝で敗れた相手はPL學(xué)園だった。北陽(yáng)は強(qiáng)力打線(xiàn)が看板で、練習(xí)試合を含めて完封された試合はほとんどなかったが、PL學(xué)園戦はいずれも完封負(fù)けだった。當(dāng)時(shí)のPL學(xué)園には、のちに近畿大を経て近鉄でプレーしたエースの宇高伸次、1番打者には千葉ロッテにドラフト1位指名される大村三郎の名前があった。

「あの當(dāng)時(shí)のPLには本當(dāng)に歯が立たなかったですね。その2人以外にも2年生に福留孝介(現(xiàn)?中日)がいましたし、その下には前川勝?gòu)ㄔ?近鉄)もいて、層がすごく厚かったんです」

 ライバルはPL學(xué)園だけではなかった。近大附にはのちに首位打者に輝く金城龍彥(元?橫浜DeNAなど)と、藤井彰人(元?近鉄など)のバッテリー、上宮には2年生ながら強(qiáng)打者として注目を集めた三木肇(現(xiàn)?楽天二軍監(jiān)督)がいた。ハイレベルな大阪をどう勝ち抜けばいいのか。當(dāng)時(shí)はそればかりを考えながらバットを振った。この頃はまだ、大阪桐蔭は眼中になかった。

「あの當(dāng)時(shí)は大阪大會(huì)の準(zhǔn)々決勝からABC放送でテレビ中継されていたので、まずは準(zhǔn)々決勝まで勝ち上がる、ということもひとつの目標(biāo)でした。普段の練習(xí)はキツかったですが、大會(huì)中は試合が終わればすぐに家に帰れるので、暑さやしんどい試合があっても僕からしたらめちゃくちゃ楽に感じていたんです」

 そんな猛者揃いの大阪を勝ち上がり、北陽(yáng)は春夏連続で甲子園に出場(chǎng)した。センバツは2回戦で敗れたが、夏はベスト16まで勝ち進(jìn)んだ。

 卒業(yè)後は京都産業(yè)大に進(jìn)んだ。大學(xué)3年までは、嘉勢(shì)を追ってプロの世界に行くことを目標(biāo)に野球に打ち込んだ。しかし、現(xiàn)実は厳しかった。野球に一區(qū)切りをつけて就職活動(dòng)を開(kāi)始し、某大手企業(yè)の2次試験まで通過(guò)していた。しかし、心のどこかで野球に攜わりたいという思いもあった。

 そんな時(shí)、新納監(jiān)督から「ウチに指導(dǎo)者として帰ってこないか」とコーチの打診を受けた。指導(dǎo)者になることはまったく頭にはなかった。高校野球を指導(dǎo)することの大変さを知っているだけに決斷までには時(shí)間を要したが、最後には「もう1度、ひとつの目標(biāo)に向かって選手らと喜んで、泣けるのはいいな」と恩師からの誘いに肯首した。ここから、高校野球指導(dǎo)者としての道が開(kāi)かれることになる。


恩師のもとで學(xué)んだ15年間


 北陽(yáng)野球部は監(jiān)督の長(zhǎng)期政権が続く。70年センバツでチームを準(zhǔn)優(yōu)勝に導(dǎo)き、ABC放送の甲子園解説を長(zhǎng)らく務(wù)めた松岡英孝氏は60年4月から30年間、そのバトンを受けた新納弘治氏は90年から14年まで24年間、指揮を執(zhí)った。新納氏は16年に育成功労賞を受賞している。恩師でもある新納氏のもとで辻本監(jiān)督は15年間、コーチとしてチームを支えた。この15年間は、ひと言で言うと「修行」だったと振り返る。

15年間は下積みというより、恩師に再び甲子園の土を踏んでほしいという思いで、サポートを続けてきました??鄲槫涓鹛伽猡ⅳ辘蓼筏郡⑦x手らに愛(ài)情を注いでくれている恩師に何とか陽(yáng)の當(dāng)たる場(chǎng)所にいてほしいと思っていました。毎日、毎日が必死で、気が付いたら15年が経っていたという感じでしたね」

 22歳からチームを様々な角度から見(jiàn)てきたが、同時(shí)に恩師の厳しさもあらためて感じた。練習(xí)が終われば、細(xì)かい指摘を受けることも多く「練習(xí)が終わって、監(jiān)督が監(jiān)督室に入ったら『今日も何か言われるんかな……』と、ある程度察するんです。グラウンドを引き揚(yáng)げるのが嫌で、選手の練習(xí)にずっと付き合うこともありました。でも今、監(jiān)督になって、コーチだった自分に『もう少しこうやってあげたら監(jiān)督は喜ぶぞ』と思うことは山ほどあります」

 14年秋に恩師のバトンを受けてからも、就任1年目、2年目は勇退した新納氏がグラウンドに顔を出すことも多かったという。

「當(dāng)時(shí)の自分は野球が見(jiàn)えていなかったと思います。僕の様子が気になって新納監(jiān)督がちょくちょくグラウンドに來(lái)られていましたが、その度に監(jiān)督から厳しい指導(dǎo)を受けていましたね。新納監(jiān)督が、監(jiān)督當(dāng)時(shí)にどんな風(fēng)にチームを見(jiàn)ていたのか、今になって気づくことが多いです。何より、今の方が選手のことを一層考えるようになりました」

 監(jiān)督就任當(dāng)初は、とにかくがむしゃらに猛練習(xí)を重ねた。自身の高校時(shí)代と同じように、ノックでエラーが出れば全員でグラウンドを何十周も走らせるというペナルティーも課した。正直なところ、それが正しいのかと言われれば疑問(wèn)を持っていた。でも、練習(xí)量を減らすと不安になる。そんな自問(wèn)自答を繰り返すような指導(dǎo)を続けていると、ある時(shí)、新納氏から「もう少し選手を見(jiàn)ろ」と言われたことがあった。

「〝いや、ちゃんと見(jiàn)ているよ?と思ったんですけどね。要は選手らの內(nèi)面を見(jiàn)ろということだったんです。そこからですね、監(jiān)督主導(dǎo)ではなく選手主導(dǎo)で練習(xí)するにはどうしたらいいかと考えるようになったのは。ただ、やることの引き出しがないと選手は何もできないですから、その引き出しを作ってあげないといけない。選手がどんな風(fēng)にやりたいのか。そのためにはこちらがどう持っていってあげればいいのか。そう考えながら選手を見(jiàn)るようになりました。いわゆる、ティーチングとコーチングの使い分けです」


「分かりません」と言える選手を育てたい


 押し付ける練習(xí)では何も選手のためにならない。22歳の時(shí)から球児たちに攜わってきた経験があるのだから、選手の溫度を常に感じながら対話(huà)をしよう。上から目線(xiàn)ではなく、隣からの目線(xiàn)での會(huì)話(huà)を心掛けるようにした。

「選手と監(jiān)督って本音と建前がありますよね。僕は彼らより長(zhǎng)く生きている分だけ経験もあるし、選手の気持ちも分かる部分がある。色んなことを教えてあげたいけれど、選手が心を開(kāi)いていないと何を言っても入ってこないじゃないですか。例えば、『分かってるんか!』って言ったら、本當(dāng)は分かっていなくてもとりあえず『はい!』って言いますよね。でも、こちらが『分かるんか?』って聞いたら『分かりません!』ってその場(chǎng)できっぱり言えるような選手を育てたいんです。純粋に野球がうまくなるために、正面から指導(dǎo)者に質(zhì)問(wèn)ができる。高校野球って、それがなかなかできないじゃないですか。どうしても指導(dǎo)者が怖くて聞きづらい、聞くのに勇気がいる。実際はそういう雰囲気がほとんどだと思うんです。分からないまま終わってしまうのだけは嫌なので、本音で選手の話(huà)を引き出せるような関係を作りたいんです」


 練習(xí)の合間に選手を集めた時(shí)などの辻本監(jiān)督の眼差しは鋭い。しかし、選手たちと冗談を交えながら會(huì)話(huà)している姿も時(shí)折見(jiàn)られる。そんな時(shí)は選手の顔も自然にほころんでいる。

「監(jiān)督が來(lái)たからって、変な空気が流れるのは避けたいですよね。こちらに人事権があるので、話(huà)しかければ話(huà)してはくれます。でも、チームを作るのは選手たち。監(jiān)督のチームではないので、選手らで考えて目標(biāo)設(shè)定して勵(lì)んでほしい。余計(jì)な壁によって、嫌なことから逃げてほしくないんです」

 目標(biāo)も決して背伸びはしない?!溉珖?guó)制覇」は、いわば強(qiáng)豪校のスタンダードな目標(biāo)だが、実際、全國(guó)制覇できるような練習(xí)をしているのかと疑問(wèn)に思うこともある。

「だから、全國(guó)ベスト8で喜ぶチームでもいいじゃないかって思います。目標(biāo)設(shè)定しながらどこまでやれるのか。そこはしっかり見(jiàn)ていってあげたいです」

 特に近年は、新型コロナウイルス感染拡大の影響による休校などで、思うように練習(xí)ができなかった。その狀況に甘んじて練習(xí)をうわべだけで済ませようとするのか、自主練習(xí)でさらに追い込めるようになるのか。

「もちろん後者のような選手を育てていきたいですが、そういう意味でもティーチングとコーチングの使い分けは意識(shí)しています」

 様々な角度から見(jiàn)つめる辻本監(jiān)督の選手への目線(xiàn)は、実に柔らかい。




功を奏した「大阪桐蔭対策」


 昨夏の大阪大會(huì)、関大北陽(yáng)は大阪桐蔭に準(zhǔn)決勝で1012で惜敗した。しかし、監(jiān)督に就任して迎えた2度目の夏となる16年には3回戦で大阪桐蔭に2対1で勝利している。その年は春の大阪大會(huì)準(zhǔn)決勝でも大阪桐蔭と対戦し、1対5で敗れていた。注目すべきは、春夏ともに同じ投手を先発させていたことだ。

「エースの清水寛というピッチャーがいたのですが、冬場(chǎng)の練習(xí)では壁當(dāng)てを黙々とやるくらいおとなしい子でした。春になってスライダーを低めに丁寧に投げられていたので、大阪桐蔭戦はどこまで通用するのかを見(jiàn)る意味で敢えて完投させたんです」

 ストレートは130キロ臺(tái)、他には緩いカーブも持ち球にあったが、オーバースローのオーソドックスな右腕だった。ただ、清水の球威だと大阪桐蔭の打者に限らず、芯に當(dāng)たると外野を越えてしまう。そのため各打者のデータをもとに、対策として外野手をフェンスギリギリに張らせた。のちに17年春季近畿大會(huì)準(zhǔn)決勝で彥根東(滋賀)がとった「大阪桐蔭対策」でもあるが、その上を越されたら仕方ないとチームで腹を括った。

「あの夏の試合は終わってみると內(nèi)外野のフライが14個(gè)もあったんです。ウチのピッチャーがここに投げると、桐蔭の打者のスイングならどの辺りまで飛ぶかなども選手が分析していました。実際に野手の正面を突く打球が多かったですね」

 初回に點(diǎn)を與えないことが第一條件と考えていたが、まずはそれをクリアした。だが、3回に1番の中山遙斗にホームランを浴びて先制を許した。しかし、4回裏に2點(diǎn)を奪って逆転。関大北陽(yáng)が1點(diǎn)をリードして、その後は膠著狀態(tài)が続いた。

 そして8回の大阪桐蔭の先頭打者は中山。

「中山君は一番タイミングが合っていて嫌やなと思っていたのですが、三遊間を抜けるような當(dāng)たりが、ウチのショートが差し出したグラブに入ってアウトになったんです。その後、吉沢(一翔)君の左中間を破りそうな當(dāng)たりも、ウチのレフトがフェンスに當(dāng)たりながらキャッチして球場(chǎng)から大喝采が起きました。その時(shí)、思ったんですよね?!簞伽皮毪韦省护盲?。でも、『いやいや、相手は桐蔭や』って自分に言い聞かせていました」

 春に1度対戦していたため、選手らにはある程度、その年の大阪桐蔭のイメージがあったのだろう。試合前から余計(jì)な硬さもなく、過(guò)剰に意識(shí)している者もいなかった。

「夏に向けての練習(xí)では『お前らはやれるぞ!』と、気持ちを乗せるような雰囲気を作ってきました。あの學(xué)年は決して実力が高かったわけではなく、しんどいことを目の前にしたら消極的になりがちだったんです。でも、『ここを乗り越えたら大阪桐蔭に勝てるぞ』と聲を掛けて、力はなくても度胸を付けたいと必死でした。夏も清水を先発させたのは、あれから2カ月で成長(zhǎng)したところを見(jiàn)たかったんです。本人にも『成長(zhǎng)したんやろ?』と何度も聞いたら元?dú)荬瑜氦悉?!』って答えてくれて。僕も頑張っている姿は見(jiàn)てきたので、あとは清水を信じるだけでした」

 試合中、辻本監(jiān)督は狙い球や、守備位置など細(xì)かい指示はほとんど行っていない。ベンチでは「行け!」「戦え!」という大きな聲だけが響いていた。

 そして、いよいよその瞬間が訪れた。9回2死。最後のアウトはライトフライだった。ライトのグローブに打球が収まった瞬間、辻本監(jiān)督は捕球した右翼手をじっと見(jiàn)つめていた。

「高校の時(shí)に甲子園出場(chǎng)を決めた瞬間もそうだったのですが、決定的なシーンはスローモーションというか、無(wú)音のようになるんです。それにしても、當(dāng)時(shí)のエースの高山(祐?!‖F(xiàn)?北海道日本ハム)君はボールが速いし、すごくいいピッチャーでした。あれだけの選手が大阪桐蔭のユニホームを著ていたら、さらに威圧感がありますよ。ウチの選手は最初に目の前で見(jiàn)た時(shí)はビビッていたと思います。でも、ずらっと並んだユニホームを見(jiàn)て、怖がらないチームにしたかった。そういう意味では、よく練習(xí)して、いい意味で『僕たちは強(qiáng)いんだ』と勘違いしてほしかったんですよ」


「大阪桐蔭に勝った高?!工趣いΕ抓欹氓伐悌`


 大変だったのは試合後だった。

「ベンチから引き揚(yáng)げる時(shí)、ウチの選手が泣いていたんです?!海郴貞椁Kわったばかりなのに何を泣いているんや!』と、隨分強(qiáng)い口調(diào)で言いました。保護(hù)者の方を集めて、そういう話(huà)もしました。ウチの選手は全員自宅通學(xué)なので『家に帰っても絶対に〝甲子園?って言わないでください』と。桐蔭に勝ったから甲子園に行けるわけではないですし、あと5つ勝たないと甲子園には行けないんです。ただ、ああいう時(shí)って監(jiān)督はどんな風(fēng)に話(huà)を持っていけばいいんですかね?!和┦aに勝ったから自信持っていこう』って言うべきだったのか。そこは難しかったです」

 翌日の関西圏のスポーツ紙には、関大北陽(yáng)が大阪桐蔭に勝利した記事が大きく掲載されていた。以降は「大阪桐蔭に勝った関大北陽(yáng)」という目で見(jiàn)られるようになった。

「それがすごくプレッシャーになるのではと思いました。そう思うと胃が痛くて、実は大阪桐蔭の試合後1時(shí)間くらいその場(chǎng)から動(dòng)けなかったんです。試合後に胃が痛くなるなんて初めてでした。勝ったことで取材を受けるのは嬉しかったですが、『桐蔭に勝ったから──』と言われることで選手が身構(gòu)えてしまいました。次の試合では思い切った野球ができていなかったように思います」

 嫌な予感ほど的中するものだ。次戦の4回戦では金光大阪に0対1で敗れた。力を出し続けることの難しさ、そして指導(dǎo)者として試合結(jié)果に応じた選手たちのアフターケアの大事さを、この時(shí)ほど痛感したことはない。


ビビらないこと、初回をゼロで抑えること


 00年代以降は、全國(guó)的にも常勝軍団となった大阪桐蔭。そして19年に全國(guó)制覇を果たした履正社。大阪ではそんな〝二強(qiáng)?が參加各校の前に立ちはだかる。

「よく『大阪桐蔭がいたら大変やな』って言われることもありますが、どこの都道府県にも手強(qiáng)いチームはいますから、そこを乗り越えるためにどの學(xué)校も努力はしていると思います。もっと言うと、大阪じゃなくても兵庫(kù)や、奈良、和歌山だって大変ですし、東京や神奈川、東北なんかもレベルが高いでしょう。どこの地區(qū)にも強(qiáng)いチームはありますから」

 辻本の長(zhǎng)いコーチ生活の終盤(pán)以降から、大阪桐蔭が府內(nèi)でいわば〝獨(dú)走狀態(tài)?になった。履正社も含めて、どう倒そうか、付け入るスキは見(jiàn)つけられるのか。両校の甲子園での試合を見(jiàn)る度に、プレーの傾向なども含めて彼らの一挙一動(dòng)をテレビで観察している。16年の夏前まではことあるごとに大阪桐蔭の名前を出してはいたが、今は普段の練習(xí)では意識(shí)させていない。

「高校野球は毎年戦力が限られます。ウチは決して能力の高い選手が集まっているわけではないですからね。どんな相手との試合でも、選手を最高の狀態(tài)に持っていくのが指導(dǎo)者の仕事。大阪桐蔭のユニホームを見(jiàn)てもビビらず〝僕らもやれる?と思えるようになるのが大切ではないですかね。対策とか研究より、そもそもそこが大事ではないかと思います。確かにプレーもそうだし、選手の身體つき、投げる、打つ、走るも大阪桐蔭の選手は違いますよ。それでもまず、怯まずに初回をゼロに抑えると、選手はやれるぞという気持ちになります。そういう流れを初回から作ることが大事だと思います」


「それにしても、とんでもなかったですね。ホンマに強(qiáng)かったです」

 辻本監(jiān)督は、優(yōu)勝したセンバツの大阪桐蔭の戦いぶりを素直に稱(chēng)えた。

「全員が1球に集中していて、貪欲に次の塁を狙っている。一人ひとりの意識(shí)の強(qiáng)さをあらためて感じました。でも……こちらとしても戦い方はあると思っています」

 遠(yuǎn)く離れた存在だった西谷監(jiān)督とは、中學(xué)生を視察しに行く場(chǎng)でよく顔を合わせるようになった。「最近は聲を掛けていただくこともあります。自分もようやく話(huà)していただけるようになったのかなと思います。ですので、こちらも気になることを質(zhì)問(wèn)させてもらっています」

 中學(xué)時(shí)代の実績(jī)で差があろうが、同じ土俵に立てば、そんな過(guò)去は関係ない。

「何も実績(jī)のない子たちが、ああいう學(xué)校に勝つってカッコいいじゃないですか。勝ったことで僕が株を上げるとかはどうでもよくて、選手らによかったと心の底から思ってもらいたいですし、將來(lái)、それがどれだけの自信になるのかって思うんですよ。そのための普段の練習(xí)だということも分かってもらいたい。高校生が部活で活躍して新聞で取り上げてもらえるなんて、普通は考えられませんよね。そういう意味でも、高校野球の中で成功體験を積んでいってほしいんです」

「HOKUYO」と胸に刻まれたユニホームは、関大北陽(yáng)の何よりの誇りだ。この上ないプライドを胸に、復(fù)活の夏を必ず刻み込む。次は「あの夏は……」と笑顔で振り返られるように。コーチとして15年、監(jiān)督となって今夏で8年。

 辻本監(jiān)督の指導(dǎo)者としての闘志の火は、今さらに燃え上がっている。


関大北陽(yáng) 辻本忠監(jiān)督 「ビビらないこと、初回をゼロで抑えること」的評(píng)論 (共 條)

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